熱田大空襲の歴史

熱田の歴史を探ると2つの大きな悲しみの出来事がありました。一つは、熱田大空襲。もう一つは、伊勢湾台風。今回は、熱田大空襲が熱田にどのような被害をもたらしたか?お伝えできればと思います。

当時の名古屋市について

名古屋市は、日本の本州南沿岸沿いの伊勢湾の奥に面し、人口は120万人(1944年時点)を超え、東京、大阪に次いで日本の第三都市でした。

名古屋市並びにその周辺には、日本の航空機製造において最大級の折紙をつけられていた工場が6つありました。5つの巨大な造兵廠(日本陸軍直営兵器工場)などがあり、日本の軍事産業の一大中心地となっておりました。

旧:熱田兵器工場

アメリカ空軍は、太平洋戦争の最後の9ヶ月間に、名古屋の工場並びに市街地区域の空襲において14,054トンの爆弾を投下したと言われています。

名古屋市に残存していた人の3分の2が直接の爆撃被害を受けたほどです。

熱田空襲と痕跡

熱田空襲は昭和20年6月9日、わずか10分で2000人を超す死者を出しました。標的は、愛知時電気船方工場(熱田区千年)と愛知時計発動機製作所(熱田区南一番町)でした。警報ミスがこれほど死者を出した要因と言われております。(警報の解除後に空襲)当時の空襲の痕跡が残っています。

千年プロムナード

護岸表面に見られる窪み(くぼみ)は熱田空襲の爆撃によりできたもの。爆撃から身を守るため、多く方が堀川に飛び込んだようです。

たくさんの犠牲の上で、我々は生きている。生かされていることを、ここにくると実感します。早く世界に平和が訪れて欲しいです。

▼伊勢湾台風による熱田区の被害状況はこちら

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