熱田魚市場の歴史

熱田区の大瀬子公園の辺りはかつて「熱田魚市場」という大きな市場がありました。室町時代には、熱田で魚の市が開かれており、織田信長の居城であった清洲城に魚を運んだと言われております。江戸時代には、大瀬子と木之免(きのめ)に魚問屋が設けられ、魚は問屋を経て市場で売買されました。

大瀬子公園内にある「魚の壁画」や「船」は熱田魚市場跡を表すモニュメントになります。意味のないものってないもんですね〜。熱田区周辺には歴史スポットがたくさんあります。

ここからは、熱田魚市場の歴史についてもう少し深く解説。「名古屋市中央卸売市場50年誌」(発行:名古屋市)という本を参考にしました。

熱田魚市場の成り立ち

もともと現在の熱田区神戸より南は海となっていて、付近には七里の渡しがあり、人の往来も盛んであったと思われ、その海辺に小屋を作って魚類の集散を行なっていたものが後に魚市場へ発展したとされる。織田信長が清洲城にいた頃から熱田には魚問屋が数戸あって、毎日魚を清洲へ運んでいたと言われており、寛永年間の頃になると問屋の株数が定まり、市場を木之免と大瀬子に置いた。魚市場には問屋のほかに仲買と小座(一般の小売商)があり、魚類は荷主から問屋に渡り、問屋は競売により仲買に渡し、仲買は小座に販売した。

熱田魚市場の発展

天保3年(1832)ごろから漁民が捕獲した魚を買回り船で買い回り、市場へ回船して問屋へ売ることを業とする者が現れて大いに繁盛した。さらに、押し送り船と称する業者が登場し、遠国の魚類を買収して問屋に送り届ける方法をとるに至った。こうしたことにより熱田魚市場には尾張、三河、志摩、伊勢、紀伊、駿河、遠江などからいろいろな魚が集まるようになった。

名古屋中央卸売市場の誕生

昭和16年12月8日、我が国はアメリカ・イギリスに宣戦布告し、太平洋戦争に突入した。戦時経済下における物資の需給はいよいよ逼迫し、政府は数々の統制法規を制定していった。これがきっかけとなり中央卸売市場の建設へ動いていった。名古屋市中央卸市場施設協議会が設置され、審議の結果、市場を北部、中部、南部の3ヶ所とし、中部市場は、熱田区内の土地を取得することになった。こうして、名古屋中央卸売市場は誕生したが、空襲によって全焼してしまった。終戦後、昭和23年12月に、名古屋中央卸売市場条例が市議会に上程され、可決された。翌昭和24年1月10日、農林水産省から開設許可が下り、同年4月1日、名古屋中央卸売市場は開場した。

名古屋中央卸売市場の向かいには、一般消費者向けの大名古屋食品センターがあります。熱田のお宝グルメ倉庫になっているのでぜひ一度訪れてみてください。運がよければマグロ解体ショーが見れるかも♪

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