名古屋で賑わいを見せる場所を5つあげてと言われれば、必ず入ってくるのが「大須」。大須観音、大須商店街、食べ歩き、スイーツ、古着、家電、いろいろなジャンルのお店がたくさんあり、名古屋の若者文化の最先端がここにある、と言って過言ではありません。では、なぜ大須にこんなにも大勢の人が集まってくるのでしょうか?いつから現在のような賑わいを見せたのでしょうか?
大須観音名前の由来
愛知県民なら一度は行ったことがある大須観音。その名前の由来をご存知でしょうか。
正式名:北野山真福寺宝生院(きたのさんしんぷくじほうしょういん)
歴史は400年。
1612年(慶長17年)徳川家康の命令により名古屋城下に移転したことが始まりです。それ以前の300年は木曽三川の中洲にありました。(現:岐阜県羽島市桑原町大須)木曽川と長良川が合流する北側に位置し、鎌倉時代の末期に北野社と真福寺がつくられました。その中の一つの院家として宝生院が存在し、名古屋移転の際に寺号と旧来の地名をとって「大須観音宝生院」と呼ぶようになったそうです。
実は「大須観音」は略式名称なんですね!
名古屋城の築城と大須の礎
徳川家康は大阪城や豊臣方大名への備えとして名古屋城を築きました。同時に「堀川」が開削され、城下の輸送に大きな便となりました。木曽川を下り、伊勢湾を東に向かえば堀川に入るため、堀川が大須観音の移転に活用された可能性は高いとされます。
移転後、大須観音は本町に直通せず、本町通りから西に伸びる長い参道で結ばれていました。隣接する清寿院と七ツ寺も賑わいの場所であるため、両寺に挟まれた参道には、さまざまな店や連絡門ができ、大須観音の境内は城下の賑わいの中心に。移転がきっかけとなり、現在の大須の礎がこの頃に形成されます。
大須の繁栄と焼失
大須観音の一帯は数多くの寺が集められ「南寺町」と呼ばれる地域を形成しました。ここは名古屋城下と熱田をつなぐメインストリームとなり、寺社の境内や門前に芝居小屋や見世物小屋が建ち並ぶ盛場に。しかし、明治以降二度にわたって、伽藍のほとんどが焼失する事態が起こります。現在の大須観音の伽藍(寺院の建物の総称)は、昭和45年に再建された本堂をはじめとして、ほぼ全てが戦後の建築となっています。
再び繁栄するきっかけ
明治維新による変革は大須観音にとって大きな打撃となりました。地租改正に伴う社寺領の整理によって町屋化していき、境内北側の土地や門前町の土地を失い残された境内も官有地とされました。このような状況下で、大須観音は境内に露店を誘致し、その借地料を伽藍の修繕費としてもらうことで窮状をしのいだとされています。
明治41年に名古屋で最初の映画館「文明館」が開館し、「映画の街」大須として出発しました。大須観音の西側にあった巨大な遊郭「旭廓」の移転がきっかけで、大須の衰退が懸念されます。これを打開するため「大須大商組合」が結成され、発展策が検討され、街灯の整備や道路の舗装、境内にひしめく店舗の整理が行われました。この頃、大須のシンボルとなる大提灯が本堂に掲げられました。
「大須」の文字が入った赤提灯は大須商店街のあちこちにありますよ〜
賑わいの原動力
昭和6年(1931)に本尊の大開帳が行われ、同年から盆踊りも始まりました。市民から歌詞を公募して「大須音頭」が誕生。大須は名古屋を代表する繁華街となっていきました。一転して昭和20年の空襲でここ一帯は焼き付くされて焼け野原に。復興へ努力が続けられ、昭和45年になると大須観音本堂が再建されましたが、映画産業の衰退もあり、賑わいを失いつつもありました。この苦境を脱するため、昭和53年(1978)、第一回大須大道町人祭を開催。大道芸や見世物の要素を取り入れた新たな祭りは話題を呼び、戦後最大の人手を記録したそうです。
「新しい祭り」をきっかけに大須は賑わいを取り戻しました。
まとめ
①徳川家康によって名古屋城下へ移転
②2度の焼失と復興
③「大須大商組合」が結成、街の整備
④大道芸や見世物の要素を取り入れた新たな祭り
⑤大須観音の再建→街のシンボルに
大須の歴史を見ると、順風満帆に現在の姿になったわけでなく、大須の人々の知恵によって何度も賑わいを取り戻していると言えるでしょう。こうした歴史背景と重なって、大須観音というシンボルが今もなお大須に人を引き寄せ、賑わいの中心となっております。
▼大須にこんなところがあったんだぁ!!!
愛知の“魅力”を再発見!#さぶかる@Aichi#さぶかる愛知#サブカル愛知#I LOVE 愛知